ワイマール共和国(ヴァイマル共和国)
ワイマール共和国は、第一次世界大戦後、ナチスドイツが台頭するまでの1919年から1933年までの間、成立していたドイツ政府です。カイザー・ヴィルヘルム2 世が退位した後、ワイマールの町でドイツ新政府が形成されたためワイマール共和国と名付けられました。敗戦国として国が始まり国際社会への復帰を果たしますが、14年間という短い期間で政権崩壊に至ります。アドルフ・ヒトラーとナチ党の台頭が目覚ましくなりワイマール共和国は、激動な時代を経験することになったのです。
第一次世界大戦後のドイツ
ドイツは第一次世界大戦後、経済的・社会的混乱に陥ります。ドイツの船員と兵士による一連の反乱の後、カイザー・ヴィルヘルム2世は軍とドイツ国民の支持を失い、1918年11月9日に退位を余儀なくされました。
翌日、ドイツの社会民主党(SDP)と独立社会民主党(USDP)の党員で構成された暫定政府が発表され、軍から権力が移されます。
1918年12月、新しい議会憲法の作成を目的とした国民議会の選挙が行われました。1919年2月6日、国民議会はワイマールの町で会合を開きワイマール連合を結成します。大統領には、SDP党首のフリードリヒ・エーベルトが選出しました。
6月28日、ヴェルサイユ条約が調印されます。敗戦国のドイツは第一次世界大戦の責任を負い、軍隊の削減、領土の一部放棄、連合国に法外な賠償金を支払うよう命じられました。条約の調印により、ドイツの国際連盟への加盟が妨害されてしまったのです。
ワイマール憲法
1919年8月11日、ワイマール憲法がエーベルト大統領によって署名・法制化されますが、軍と急進左派から猛烈な反発を受けたのです。憲法には181の条項が含まれ、ドイツ国家 (ライヒ) の構造、ドイツ国民の権利から信教の自由、法律の制定方法まで、すべてが網羅されていました。
ワイマール憲法には、下記のようなハイライトが記載されています。
・ドイツ帝国は共和国です。
・政府は、大統領、首相、および議会 (国会議事堂) で構成されます。
・国民の代表者は、20歳以上のすべての男女の中から4年ごとに平等に選出されなければなりません。
・大統領の任期は7年です。
・大統領のすべての命令は、首相または帝国大臣によって承認されなければなりません。
・第48条は、大統領が公民権を一時停止し、緊急時に独立して行動することを認めています。
・ドイツ国民を代表する2つの立法機関 (労働者評議会と経済評議会) が設立されました。
・すべてのドイツ人は平等であり、同じ公民権と責任を持っています。
・すべてのドイツ人は表現の自由の権利を持っています。
・すべてのドイツ人は、平和的に集会を開く権利を持っています。
・すべてのドイツ人は信教の自由の権利を持っています。国教会はありません。
・子供たちの就学は義務であり、授業および教材はすべて無償です。
・すべてのドイツ人は私有財産の権利を持っています。
・すべてのドイツ人は、職場で平等な機会と収入を受ける権利を持っています。
ハイパーインフレとフォールアウト
新しい憲法が制定されましたが、ワイマール共和国はドイツ最大の経済的課題の1つとなったハイパーインフレに直面していました。ベルサイユ条約の調印により、ドイツの財源となる石炭、鉄鉱石などの天然資源の産地が没収され生産能力が低下した事が原因でした。戦争の負債と高額な賠償金によって財源を使い果たしたドイツ政府は、負債を支払うことができなくなったのです。
第一次世界大戦の元同盟国の一部は、支払う余裕がないというドイツの主張を受け入れてはくれませんでした。ドイツの条約違反が原因となり、フランスとベルギーの軍隊はドイツの主要工業地帯であるルール地方を占領します。そして、賠償金の請求を続けたのです。
ワイマール政府は、ドイツ人労働者に対して占領に消極的に抵抗し、ストライキを行うよう命じました。炭鉱と製鉄所を閉鎖したため、ドイツ経済は急速に衰退しました。
ドイツ内での財源不足を補うために、ワイマール政府は単純に紙幣だけを増刷する金融的措置をしました。その結果、ドイツ通貨のマルクの価値はさらに下がり、インフレは驚異的なレベルまで上昇しました。生活費は急速に上昇し、多くの人々がすべてを失ってしまったのです。
ジョージ・J・W・グッドマンがアダム・スミスというペンネームで書いたペーパー・マネーの書籍には「法を遵守していた国はささいな盗みに崩壊した」との記載があります。スーパーインフレにより紙幣は紙屑と同等な価値になったため、食品・生活用品が手に入らなくなりました。一般庶民は闇市で物々交換を行い、生活を凌いでいたのです。
ドーズプラン
ドイツは、1923年にグスタフ・シュトレーゼマンを新しい首相に選出しました。シュトレーゼマンはルール労働者を工場に戻すよう命じ、マルクをアメリカが支援するレテンマルクという新しい通貨に置き換えました。
1923年後半、国際連盟は、米国の銀行家であり予算局長でもあるチャールズ・ドーズ氏に、ドイツの賠償金とハイパーインフレの問題への取り組みを支援するよう要請しました。彼は、ドイツが現状よりも合理的に賠償金を支払い終えるよう計画を概説した「ドーズ計画」を提出しました。ドーズは後にノーベル平和賞を受賞しました。
ドーズプランとシュトレーゼマンのリーダーシップは、ワイマール共和国の安定と経済の活性化に貢献しました。後に、ドイツはフランスとベルギーとの関係を修復し、最終的に国際連盟への加盟を許可されます。国際貿易の扉が開かれたことによって、ワイマール共和国の生活は大きく改善されたのでした。
大恐慌
ワイマール共和国の経済は、米ドルが定着したことによって景気回復を示していました。その一方で世界経済の中心となっていたアメリカでは、生産過剰による経済の不安が広がり始めていました。ドイツはその後、失業率の上昇、低賃金、株価の下落、巨額の未清算銀行融資に苦しむことになります。
1929年10月29日、米国の株式市場が暴落し、アメリカは壊滅的な経済崩壊に陥ります。大恐慌の始まりでした。
株式市場の暴落は、世界的に大きな影響をもたらしました。米ドルによって景気回復をしたワイマール共和国は、壊滅的な打撃を受けます。アメリカの資金の流れが枯渇したため、ドイツは財政的責任を果たすことができなくなりました。事業は失敗し、失業率は上昇、ドイツは再び壊滅的な経済危機に直面します。
第48条
世界恐慌が起きスーパーインフレの間、ドイツの中産階級は経済的混乱の矢面に立たされることになりました。人々は、度重なる経済不況を理由に政府の指導者に不信感を抱き新しい指導者を探し始めます。そこで、アドルフ・ヒトラー(1889-1945)率いるナチ党などの過激派政党に目を向けました。共産主義者による政治の乗っ取りを恐れ、1923年に国民革命を開始しようと試みますが当時のナチ党は不人気であったため失敗に終わりました。
1932年、ナチス党は議会で最大の政党になりました。短期間の権力闘争の後、ヒトラーは 1933年1月に首相に任命されました。数週間のうちに、ヒトラーはワイマール憲法の第48条を発動し、多くの公民権を無効にして共産党員を弾圧しました。
1933年3月、ヒトラーは全権委任法(授権法)を導入し、ドイツ議会や大統領の承認なしに法律を可決できるようにしました。法が制定されると、ヒトラーは共産党議員の投票を強制的に阻止し、独裁政権を確立しました。